2026年9月22日火曜日

あの街の音は、一台の鍵盤から出ていた — ヴァンゲリスとヤマハCS-80

雨の降る夜の街、ネオン、果てしなく高いビル。1982年の「ブレードランナー」の冒頭で流れるあの音を覚えている方は多いと思います。壮大に広がるのにオーケストラではなく、シンセのようでいて当時のシンセの音とも違う。人が息をするみたいに音が膨らんで、また縮んでいく。

あの音を出していたのは一台の機械と一人の演奏者でした。ヤマハCS-80とヴァンゲリスです。

① 1977年、ヤマハが作った怪物 🏭

CS-80は1977年に発売され、1980年に生産終了しています。たった3年です。

スペックを見ると当時としては異常でした。8ボイスのポリフォニーで、各ボイスに独立した2層があり、二つの音色を重ねられる。フロントパネルには各層のパラメーターが全部別々に並んでいます。プリセット22と、ユーザー保存が4。しかもこの保存がデジタルメモリーではなく、極小の可変抵抗の束でした。ノブの代わりにミニスライダーを手で合わせておく方式です。

価格が圧巻です。アメリカで6,900ドル、日本で128万円。 1977年の話ですから、車が一台買える額ですね。

そして重かった。一人では動かせない代物で、ツアーに持ち出すこと自体が事件でした。

この規格外の物体がどこから出てきたのかを考えると、日本にいると少し感慨深いところに行き着きます。

② 日本製だったということ 🇯🇵

世界中のシンセ好きが「史上最高のアナログポリシンセ」と言い続けている機種を、日本のメーカーが作っていた。

背景には電子オルガンがあります。ヤマハにはエレクトーンで積み上げた鍵盤まわりの技術があって、1970年代前半にはGX-1という巨大なポリフォニックシンセを作っていました。CS-80は、そのGX-1の発想を引き継いで量産寄りにまとめた機種として語られることが多いです。

つまり「弾ける鍵盤」を作れる会社だったから、あの鍵盤が生まれたとも言えるわけですね。次に書く話がまさにそれです。

▶ Yamaha Synth Space History | CS-80

③ 指一本ずつが別々に効く 🎹

CS-80がいまも語られる理由は、音色よりも鍵盤のほうにあります。

🔹 ベロシティ — 強く弾けば大きく明るく、弱く弾けば小さく暗く。ピアノと同じですね。1977年にこれは当たり前ではありませんでした

🔹 ポリフォニック・アフタータッチ — ここが核心です。押したあとにさらに押し込むと音が変わるのをアフタータッチと言いますが、たいていの鍵盤は押さえている音すべてにひとつの値しか送りません。和音を押さえて一本だけ押し込んでも、全部が一緒に変わってしまう。CS-80は鍵盤ひとつずつが別々に圧力を感知しました。和音を押さえて真ん中の音だけ押し込めば、その音だけ前に出ます

🔹 リボンコントローラー — 左手側に細長い帯があって、指でなぞるとピッチが滑る。しかもポリフォニックなので、和音を押さえたまま丸ごと曲げることもできました

この三つが合わさると何になるかというと、指一本ずつでそれぞれの音を別々に演奏することになります。管楽器の奏者が一音ずつ息を入れたり抜いたりするみたいに。ヴァンゲリスの音楽で和音が生き物みたいに動いて聞こえるのは、これが理由です。シーケンサーで打ち込んだのではなく、指で押したり緩めたりしているわけですね。

ここまで作り込んだ鍵盤は、それを使い切る人に出会って初めて意味が出ます。CS-80にはその人がいました。

④ 「本物の楽器と呼べる唯一のシンセ」 🎼

ギリシャ出身の作曲家ヴァンゲリスは、1977年のアルバム「Spiral」でCS-80を使いはじめ、生涯手放しませんでした。70年代後半から80年代の大半にわたって彼の主力機だった機種です。

本人の言葉が残っています。自分のキャリアでいちばん重要なシンセであり、これまで出たアナログシンセの設計として最高のものだ、と。ちゃんと弾こうとすれば練習がかなり要るけれど、それはこれが本物の楽器と呼べる唯一のシンセだからで、その理由は主に鍵盤にある、という趣旨でした。

つまり彼はこの機械を「いい音色が入った箱」としてではなく、演奏する対象として見ていたわけです。

▶ Vangelis — Chariots Of Fire

1981年の映画「炎のランナー」のテーマです。メロディを聴くと音ひとつずつの強さが微妙に違っていて、長く伸ばす音は途中から音が開いていきます。抑揚が手で付いているわけですね。鍵盤を押したあと、指にさらに力を入れているんです。

この弾き方が映画一本をまるごと支えることになるのが、その翌年です。

⑤ 街を音で建てた 🌃

1982年、「ブレードランナー」が来ます。

リドリー・スコットの作ったあの街は、未来なのに古びていて、派手なのに湿っている。ヴァンゲリスが付けた音楽もそうでした。壮大なのに悲しく、電子音なのに温かい。オーケストラを使わずにあの規模を出したのが、いま聴いてもすごいところです。

▶ Vangelis — Blade Runner

聴いてみると、音が一枚の壁として押し寄せるのではなく、中で何層かがそれぞれ違う速さで動いています。ポリアフタータッチで和音の中の音を別々に押し込むと、こうなります。

📌 あの音が定番になったあと

以降のSF映画音楽は長いあいだこの方向をなぞっていきます。いまでも「ブレードランナーっぽい音」と言えば全員が同じものを思い浮かべますよね。一台のシンセと一人の演奏が、ジャンルひとつの初期値を決めてしまったわけです。

ところが、その初期値になった音を盤で聴くことは長いあいだできませんでした。

⑥ サウンドトラックが12年遅れて出た話 💿

映画は1982年公開なのに、ヴァンゲリス本人の演奏が入った正式なアルバムが出たのは1994年でした。6月6日発売です。

では1982年に出たサウンドトラック盤は何だったかというと、別の楽団がオーケストラで演奏し直したものでした。映画で聴いたあの音ではなかった。感動して盤を買った人が、まったく別のものを聴かされたわけですね。

ヴァンゲリス自身の録音は1981年12月から1982年4月にかけてロンドンの自分のスタジオで進められ、すでに完成していました。それが12年待たされてから公式に出た。

その間は海賊盤が出回っていて、「本物のサウンドトラック」を探すこと自体がファンの文化になっていた時期もあります。

手に入らなかったのは盤だけではありません。その音を出した機械のほうは、もっと深刻でした。

⑦ なぜいまだに複製されないのか 🔬

CS-80は現在まで丸ごとそのまま複製したハードウェアが存在しません。 フィルター部だけを復刻した製品や、構造から着想を得たラック型シンセは出ていますが、完全なクローンはない。

理由はだいたいこうです。ボイスごとに回路が二組まるまる入る構造なので部品点数が膨大で、鍵盤の圧力感知の仕組み自体がいまの基準でも作りにくい。おまけに個体ごとに音が微妙に違うので、「あの音」がひとつに定まらない。

というわけでアプローチはもっぱらソフトウェア側で進みました。2003年にArturiaがCS-80 Vを出したのが最初で、その後も複数の会社がそれぞれのやり方でモデリングを発表しています。2015年にはヤマハ自身がミニ鍵盤サイズでCS系を復活させたreface CSを出しました。

AR
🛒 Arturia 公式
CS-80 V
CS-80 をモデリングしたソフトシンセ(メーカー直販)
公式ページを見る ›
🛒 サウンドハウス
YAMAHA reface CS
HQ Mini鍵盤 / 5種のオシレーターを備えたバーチャルアナログシンセ
¥52,800表示価格は変動することがあります
商品ページを見る ›
🛒 ヤマハ 公式
reface シリーズ
CS / DX / CP / YC — HQ Mini鍵盤を搭載したミニシンセ4機種
公式ページを見る ›

当然、中古実機の相場は上がり続けています。シンセの中でもっとも高価な部類の物体になりました。

機械をまるごと蘇らせるのはこれだけ難しいのに、その核心だった弾き方のほうは別の経路で戻ってきています。

⑧ その表現力がいま戻ってきている 🔄

ポリフォニック・アフタータッチがここ数年で再び注目されているのがそれです。

鍵盤ひとつずつを別々に制御するという発想がMPEという規格にまとまったことで、対応するコントローラーやプラグインが増えました。指を一本押し込めばその音だけ明るくなり、左右に揺らせばその音だけビブラートがかかる。40年前にCS-80がアナログ回路でやっていたことを、いまはデジタルの規格でやっているわけですね。

📌 実機がなくても真似できます

1. パッドかストリングスの音色を立ち上げて、和音をそのまま打ち込みます
2. 各音のベロシティを手で少しずつばらけさせます。全部同じだとベタ打ちの音になります
3. 和音の中のひとつだけ選んで、その音にだけフィルターカットオフかボリュームのオートメーションを掛けます。ほかの音は触らない
4. 長く伸ばす音は、途中からごくゆっくり開いていくようにします。人が息を送り込む速さで
5. 最後に全体へわずかにピッチの揺れを足します。アナログ回路は完璧に正確ではなかったので

肝は和音をひとかたまりとして扱わないことです。それがCS-80の残した本当の教訓だと思っています。

まとめ

ヴァンゲリスは2022年に亡くなりました。最初に話したあの雨の街の音をいま聴き直すと、音色そのものより先に演奏が聞こえてきます。和音の中の一音だけがひとりで持ち上がって、別の音がその下で静かに抜けていく。そういうことができる鍵盤があって、それを本物の楽器として扱った人がいた。

いま目の前にある鍵盤も、本当はそういう物です。ただ僕らがそれを楽器としてではなく入力装置として扱っているだけで。

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