何時間もかけてミックスを仕上げました。それらしく鳴っています。ところが翌朝もう一度聴くと低域が妙に多く、車で流すとボーカルが聞こえず、イヤホンだとまた違う。何が正しいのか分からなくなります。
これは耳が悪いから起きる問題ではありません。基準がないから起きる問題です。 同じ曲を何時間も聴けば、耳はその音に順応します。低域が多くてもすぐそれが普通に聞こえてきますし、ボーカルが埋もれていても歌詞をもう知っているので聞こえていると錯覚する。こういうときに要るのが、外から持ってきた基準、つまりリファレンストラックです。
今日はリファレンスの選び方から、実際に何を比べるのかまでを整理します。プラグインを買わずに今日から始められるやり方で書きますね。
① リファレンスは真似ることではない
まず誤解をひとつ外しておきましょう。リファレンスを使うというのは、その曲のように作るという意味ではありません。自分が今どこにいるかを知るための座標です。
地図を見るとき、私たちは目的地だけでなく現在地をまず確認しますよね。リファレンスは現在地を教えてくれる側に近いのです。「自分の曲は低域が多い」という判断は、単独では成立しません。何と比べて多いのか、が要ります。
だからリファレンス比較の結果は、たいていこういう文になります。「思ったより低域が2割ほど多い」「ボーカルが半歩後ろにいる」「高域はもう少しあってもいい」。この程度が出れば、その日の作業の方向は決まったも同然です。
② 選び方
🔹 ジャンルと編成が近いこと
楽器構成が似ていないと比較が成り立ちません。アコースティックのバラードを作りながらEDMをリファレンスにすれば、低域の量がまるで違って出ます。好きな曲より似ている曲を選びましょう。
🔹 3曲から4曲ほど
1曲だけだと、その曲固有の癖まで追いかけることになります。複数並べれば共通点が見えてきて、その共通点こそがそのジャンルの慣習です。
🔹 できれば新しいものと古いものを混ぜる
新しい曲は今流通している音の基準を教えてくれますし、古い曲はダイナミクスが生きている状態を教えてくれます。両方あってバランスが取れます。
🔹 ストリーミングではなくファイルで
ストリーミングアプリは独自の音量正規化をかけますし、非可逆圧縮も入ります。できれば購入した音源ファイルをDAWに置いて比べてください。難しければストリーミングでも、やらないよりはずっとましです。
🔹 好きすぎる曲は避ける
思い入れがあると判断が鈍ります。「この曲はもともとこういう味だから」と思った瞬間、比較ではなく鑑賞になってしまいますから。
③ 音量を揃えなければ比較にならない
この項目がいちばん大事で、そしていちばん飛ばされます。
人の耳は大きい音をより良く聞きます。 同じ曲でも1dB大きくなるだけで、より鮮明で分厚く聞こえる。だから音量の違う二曲を並べて比べると、いつも大きいほうが勝ちます。リファレンスはマスタリングまで終わった状態なので、たいてい自分のミックスよりずっと大きい。そのまま比べれば結論はいつも「自分のミックスがダメだ」で終わります。これは情報ではありません。
やり方は簡単です。 リファレンストラックをDAWに置き、ボリュームフェーダーを下げて自分のミックスと同じくらいの大きさに合わせる。メーターでざっくり合わせてから耳で微調整すれば十分。この作業ひとつで比較の質がまるで変わります。
それとリファレンストラックは、必ずマスターバスを通さないようにルーティングしてください。マスターにリミッターを挿していると、リファレンスまで潰れて本来の音でなくなってしまいます。
④ 何を聴くのか — 5項目
漠然と「感じ」を比べても何も残りません。項目を決めてひとつずつ確認しましょう。
🔹 ひとつ — 低域の量と質
低域が多いか少ないか、そしてその低域が締まっているか広がっているかを見ます。宅録でいちばん外しやすい項目がこれ。部屋の影響を最も強く受ける帯域だからです。
🔹 ふたつ — ボーカルの距離
ボーカルが伴奏の前に出ているか、中に混ざっているかを見ます。ジャンルごとに慣習がはっきりしていて、バラードは前、ロックは奥、エレクトロニックは曲ごとに違う、という具合です。
🔹 みっつ — 広がり
ヘッドホンで聴くと分かりやすい項目です。左右にどれだけ開いているか、真ん中が空いていないかを見ます。自分のミックスだけやけに狭く聞こえるなら、たいていは全部の音を真ん中に寄せている状態でしょう。
🔹 よっつ — 明るさ
全体的に明るいか暗いか。長く作業すると耳が疲れて高域を上げ続けてしまう傾向があります。リファレンスと並べて聴けば、その過剰がすぐ表に出ます。
🔹 いつつ — ダイナミクス
サビでどれだけ大きくなるか、Aメロとサビに差があるかを見ます。リミッターを強く噛ませたミックスはこの差が消えて、曲が平板になります。
💡 ここが要です — 5項目を順に一度ずつ確認してください。一度に全部聴こうとすると、何も聞こえません。
⑤ 大きくする理由が減った
ここで最近の事情をひとつ挟んでおきます。以前は音源を少しでも大きくすることが競争力でした。ラジオやCDでは大きいほうが良く聞こえたからです。
今は事情が違います。主要なストリーミングサービスが音量を自動で揃えます。 おおよその目標値はこうです。
🔹 Spotify・YouTube・TIDAL・Amazon Music — およそ −14 LUFS
🔹 Apple Music — およそ −16 LUFS
LUFSは人が感じる音量に近づけて計算した単位だと思ってください。ここで大事なのは数字そのものより動き方です。曲が基準より大きければ、サービスが勝手に下げます。つまりリミッターで押し込んで大きくしても、再生されるときには下げられてしまう。残るのは潰れたダイナミクスだけ、というわけですね。
プラットフォームごとに細かい挙動は違います。Spotifyは上げも下げもしてユーザー側で設定を変えられますし、YouTubeは下げるだけ。細部まで覚える必要はなく、「過剰に上げても得はない」という結論だけ持っておけば十分です。
そのため最近のマスタリングの関心は「どれだけ大きく」より「この音量でどれだけよく聞こえるか」へ移りました。リファレンスを音量を揃えて比べる習慣が、いっそう大事になった理由でもあります。
⑥ 道具なしでやる方法、道具を使うとき
🔹 プラグインなしで
リファレンストラックをオーディオトラックとして1本置き、マスターを通さないように出して、音量を合わせて、ソロボタンを交互に押す。それだけです。この方法で上の5項目は全部確認できます。お金がかからず、今日すぐできます。
🔹 リファレンス専用プラグイン
マスターに挿しておいてボタンひとつで切り替える製品がいくつかあります。音量を自動で揃えてくれたり、周波数分布を重ねて見せてくれたり。確かに楽です。ただ、こういう道具が教えてくれるのは「差がある」ところまで。どう直すかは相変わらず人が決めます。 画面の曲線をリファレンスと同じに合わせようとすると、かえって変な音になりますよ。
🔹 再生環境を変えて確認する
同じ比較をスピーカー、ヘッドホン、スマホのスピーカーでそれぞれやってみてください。特にスマホのスピーカーは低域がほとんど出ないので、中域のバランスを確認するのに向いています。ここでも曲が成立していれば、だいたい安全です。
⑦ よくある失敗
🔹 リファレンスと同じにしようとする
スペクトラムを重ねて曲線を合わせると音が変になります。編曲も楽器も違うのですから。方向だけ参考にしましょう。
🔹 切り替えが速すぎる
2秒ごとに行き来すると耳が判断できません。それぞれ20〜30秒ずつ聴いて、1項目だけ確認するほうが向いています。
🔹 作業の終盤にだけ使う
ミックスを全部終えてから比べると、直すのが大ごとになります。編曲の段階で一度、ミックスの途中で一度、仕上げに一度、と分けて使うほうが効率的です。
🔹 リファレンスを頻繁に変える
1曲を作っているあいだは同じリファレンスを維持してください。毎回変えると基準が揺れて、決定ができなくなります。
🙋 よくある質問
Q. リファレンスは何曲くらいが適当ですか?
3曲から4曲で十分です。多すぎるとかえって判断が散らばります。代わりに、その数曲を何度も聴いて細部まで覚えておくほうが効きます。
Q. 音量はどれくらい正確に揃えるべきですか?
1dB以内で十分。メーターを見てざっくり合わせたあと、交互に聴きながら「どちらが大きい」という感覚が消える位置を探せば大丈夫です。
Q. マスタリング前のミックスと、完成済みの曲を比べていいのですか?
音量さえ揃えれば構いません。ただしマスタリングは明るさや広がりも少し変えるので、その差まで全部追いかけようとはしないでください。低域の量やボーカルの距離といった項目は、この状態でも十分に判断できます。
Q. リファレンスより悪く聞こえるとき、どこから手を付けますか?
低域とボーカルの距離、この二つがいちばん大きく分かれます。ここを合わせると、ほかの印象も一緒に付いてくることが多いです。
Q. LUFSの値をきっちり合わせるべきですか?
目標の数字に固執する必要はありません。だいたい−14付近に置いて、トゥルーピークが0を超えないよう管理しておけば、再生環境で問題は起きません。数字は出発点であって正解ではないのです。
📌 ひとことでまとめると
リファレンスはその曲のように作るためのものではなく、自分のミックスの現在地を知るための座標です。音量を揃えていない比較は比較ではなく、項目を決めていない比較は何も残しません。
みなさんはどんな曲をリファレンスにしていますか。私はジャンルが変わっても必ず入れる曲が二つほどあります。コメントで教えていただけたら一緒に考えてみたいです。
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