2026年9月30日水曜日

時計修理工とナイトクラブの主人 — シンセの会社が日本ばかりになった理由

スタジオを見渡すと、名前が似たり寄ったりです。ローランド、コルグ、ヤマハ。シンセも鍵盤も音源モジュールも、十中八九この三つのどれかですね。

シンセサイザーを発明したのはアメリカなのに。ムーグもブックラもARPもアメリカの会社でしたし、1970年代の初めまではそちらが市場でした。

ところが1980年代を通り抜けるうちに盤がひっくり返ります。ムーグが消え、ARPが消え、空いた場所を全部日本の会社が持っていく。

なぜそうなったのか。よく「日本は精密製造に強いから」とまとめられますが、記録をたどるともっと具体的な理由が四つ出てきます。そしてそのひとつは、競合どうしが集まって本を二冊出した話です。

① 創業者たちが研究所から出てこなかった 🔧

まず人から見ます。

ローランドを作った梯郁太郎は1930年生まれ。二歳で両親を結核で亡くし、大阪で育ちました。1946年に健康上の理由で大学入学が叶わず、九州へ渡って測量の補助で食いつなぎます。

そのとき十六歳が見つけたのがこれです。戦後の日本には時計を作る産業がない。ならば、あるものを直す仕事は成り立つ。

時計修理店に入ったものの、七年の徒弟課程を数か月で教えてくれと言い張って追い出されます。そこで本を一冊買って、元の雇い主の隣に自分の店を開きます。 これが当たる。

短波ラジオの聴取が解禁されると海外放送を聴きながらラジオの回路を覚え、壊れたセットをばらして動くものを組みながら、修理の品目をラジオまで広げました。

二十歳で大阪へ戻ったところで両肺に結核が来ます。学費のために貯めた金が治療費に消え、病院で数年を過ごしながら、職員や他の患者の時計とラジオを直して食いつなぎました。その最中に入院したままブラウン管を借りてテレビ受信機を組み立てています。 日本初の試験放送を見るために。

病状が末期に向かっていたところで新薬ストレプトマイシンの被験者に選ばれ、一年以内に退院します。薬代を払える状況ではなかったので、選ばれていなければこの話はそこで終わっていたはずです。

コルグを作った加藤孟はナイトクラブの経営者でした。1962年、東京で東大を出たアコーディオン奏者の長内端と会社を立てます。長内が加藤の店でウーリッツァー・サイドマンというリズムマシンの伴奏で演奏していたのがきっかけでした。

社名の京王(Keio)は、事務所が京王線の近くにあったのと、加藤(K)と長内(O)の頭文字を重ねたものです。のちの製品名KORGUEも、Katoh + Osanai + フランス語のorgue(オルガン)をつないだ名前です。

ここが肝心なところ。電子楽器の会社を作った人たちは音響研究所の出身ではなく、修理工とクラブの主人でした。 だから最初から感覚が違いました。「壊れたら誰が直すのか」「この値段で売れるのか」を先に考えるほうだったのです。

ローランドの最初の製品TR-77。シンセではなくリズムボックスでした

ローランドの最初の製品TR-77。シンセではなくリズムボックスでした / 出典: Trouby / CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons

② 1966年1月、二冊の本 📚

これがきょうの話の中心の場面です。

1960年代の日本の特許法には穴がひとつありました。他の国ですでに広く知られた技術でも、日本国内で先に公表されたことがなければ、海外企業が日本に出願して特許を取れたのです。

つまり海外の製造社が公知技術を持ち込んで日本で権利を押さえられる。始まったばかりの日本の製造社には致命的な壁でした。

ここに梯と同僚16名が動きます。その中には京王オルガンの加藤孟もいました。のちにローランドとコルグに分かれて競い合うことになる人たちです。

彼らがやったのは、集められる技術資料を全部集めて、1966年1月に本を二冊出してしまうことでした。

🔹 『電気楽器のすべて』

🔹 『電子楽器のすべて』

これで終わりです。日本国内で公表されたので、海外企業は本当に新しいアイデアでなければ日本で特許を取れなくなりました。 日本の会社は公知技術で設計し製造し、その上に改良を重ねる道が開いた。

おまけにこの二冊は日本初の電気・電子楽器の設計参考書になりました。防御のために出した本が教科書になったわけですね。

競合どうしが集まって「うちら全部使えるように公開してしまおう」をやった。 個別の会社が上手くて勝ったというより、会社が立てる土台を先に作ったほうに近い。

③ 違う客を見ていた 🎹

同じ時期、アメリカの会社はプロの演奏家を見ていました。ムーグもARPもスタジオと名のあるミュージシャンに向けて作っていた。だから高かったし、その値段は正当でした。

日本の会社はアマチュアと趣味の人へ向けたラインを立てます。安価なシンセサイザーを作れるようになったのがこの時期です。

結果がこれです。当時の若い音楽家の多くにとって、初めて触ったシンセサイザーが日本製でした。

これがなぜ大きな差になるかというと、最初に覚えた楽器がその人の基準になるからです。手に馴染んだ操作、耳に馴染んだ音、あとで上位機種へ行くとき自然に選ぶブランド。市場の下を取れば、10年後に上がついてきます。

アメリカの会社は市場の上の部分で正確に良い仕事をしていて、その下がずっと大きいことに気づくのが遅れました。

コルグの最初の製品ドンカマチックDA-20(1963)。ディスクが回ってリズムを作ります

コルグの最初の製品ドンカマチックDA-20(1963)。ディスクが回ってリズムを作ります / 出典: Brandon Daniel / CC BY-SA 2.0 via Wikimedia Commons

余談ですが、このドンカマチックのせいで日本のスタジオや放送の現場ではいまもガイドクリックを「どんかま」と呼びます。 製品名が一般名詞になった例ですね。

④ 安く作り、壊れないように作った 🔩

1973年、ローランドがSH-1000を出します。日本初のシンセサイザーでした。コルグ700より数週間早い。

正直に言えば良い楽器ではありませんでした。当時求められていたのはムーグやARPの太くてパンチのある音で、SH-1000は弱くて平板だと評されます。感圧もパフォーマンスコントロールもデュオフォニックもスプリングリバーブもない。他社がすでに三年前から載せていたものです。

ところが二つが違いました。

ひとつ — 安かった。

梯はオペアンプの数を減らす方向で設計して原価を大きく下げました。そこに当時の円/ドルの為替が乗って、アメリカでは約800ドルで売られます。ムーグやARPの数分の一でした。

ふたつ — 壊れなかった。

これが思ったより大きい。あの頃は製造品質がばらつき、信頼性が悪い時代でした。その中で日本製はただ動き続けた。30年経っても調整ひとつせず使っている個体の話がざらにあります。

安くて壊れないこと。 音楽家にとってはスペック表よりこちらが実質的です。とくに金のない音楽家には。

ローランドSH-1000。日本初のシンセサイザーでした

ローランドSH-1000。日本初のシンセサイザーでした / 出典: Orson Wouters / CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons

⑤ 最初から輸出を前提に作った 🚢

ここも面白いところです。ローランドがなぜ海外から行ったのか。

国内に場所がなかったからです。日本の楽器市場はヤマハと河合が押さえていて、新しい会社が既存の型の製品でぶつかっても勝てない。かといって革新的な製品が国内で根づくまで持ちこたえる現金もありませんでした。

それで創業直後に梯がやったのがこれです。

🔹 カナダへ渡って、まだ存在すらしないリズムマシンの注文を取ってくる

🔹 ニューヨークのマルチボックスを訪ねる。エース時代の米国輸入元でした

🔹 デンマークの欧州総代理店に連絡する。英国・スイス・ドイツに子会社がある会社でした

製品がないのに注文書から取ったわけです。その注文で部品を買う金を作った。部品の供給元には自分の評判を担保に90日の支払い条件を取りつけています。

ローランドは資本金10万ドル、社員7名、借りた小屋から始まりました。1972年4月18日のことです。

ちなみに社名の'Roland'はフランスの叙事詩『ローランの歌』とは何の関係もありません。柔らかい子音の二音節が必要だっただけです。どこの国の人でも発音できるように。これも輸出を前提にした判断でした。

⑥ 浜松という町 🏭

梯は大阪に住んでいたのに、工場は浜松に出しました。最初のうちは夜行列車で二つの街を往復しています。

なぜ浜松だったのか。ヤマハと河合がそこにあったからです。

楽器製造のクラスターがすでにできていた、という意味ですね。木を扱う人、金属を扱う人、塗装する人、鍵盤機構を作る人がその町に全部いた。部品がひとつ要れば近所で手に入り、人が要れば経験者を採れる。

新しく作る会社にはこれが大きい。底から作る必要がなかったわけです。ローランドはのちに会社ごと浜松へ移します。

この条件はアメリカにはありませんでした。ムーグはニューヨーク州トゥルーマンズバーグに、ブックラはカリフォルニアにあって、近所に楽器を作る町のようなものはなかった。

⑦ 1980年代 — アメリカの会社がついていけなかった地点 📉

ここで盤がひっくり返ります。

1983年からヤマハDX7がデジタルFM鍵盤を送り出します。その速度と、その価格で。この物量の前に既存のシンセメーカーの多くが崩れました。

1987年のローランドD-50が、サンプルとシンセシスを組み合わせた方式で合成の定義を書き直します。

1988年のコルグM1が25万台以上売れます。当時の基準で史上最多販売のシンセサイザーでした。

同じ時期、ムーグとARPは倒れます。技術が足りなかったからではありません。産業がアナログからデジタルへ移るその転換についていけなかったのです。

これはけっこう繰り返される話ですね。ひとつの時代を定義した会社が次の時代へ渡れないこと。アナログ回路の設計にかけては抜きん出ていた人たちが、デジタル信号処理へ移った瞬間にその強みを使えなくなった。

ヤマハDX7。三年で20万台が売れた機械です

ヤマハDX7。三年で20万台が売れた機械です / 出典: Finnianhughes101 / Public domain via Wikimedia Commons

⑧ まとめると四つが重なった 🧩

「日本が上手いから」では説明がつきません。条件が四つ重なったほうに近い。

🔹 出自が違った — 研究所ではなく修理店とナイトクラブ。最初から直す人と売る人の感覚でした

🔹 1966年に土台を開いた — 競合どうしで技術を公開して海外の特許を防いだ。個別の会社より土台が先です

🔹 違う客を見た — アメリカはプロ、日本はアマチュア。市場の下を取って、10年後に上がついてきました

🔹 為替とクラスター — 安く作れたし、浜松には楽器を作る町がすでにありました

どれかひとつでは足りなかったはずです。安く作れても特許が塞がれていれば作れませんでしたし、技術が使えてもクラスターがなければ原価が合わなかったでしょう。

⑨ では、いまはどうか 🕰️

最後に現在の話をしないと公平ではありません。上の条件のうちいまも残っているのはひとつだけです。

🔹 為替 — あの頃の有利さはありません

🔹 特許の穴 — とっくに無くなりました

🔹 アマチュア市場の独占 — いま初めてシンセを触る人はたいていソフトから入ります。そちらは米国や欧州の会社が強い

🔹 製造クラスター — これは残っています。蓄積された設計資産と一緒に

だからいまの日本の会社が売っているのは新しい条件ではなく蓄積です。50年分の設計と音のライブラリ、そして「このブランドのものはどこに挿しても動く」という信頼。

それが弱い資産だという意味ではありません。ただ盤をひっくり返した力と、いまの場所を守る力は別の種類だというのは押さえておく値打ちがあります。前者は制度と為替が作ってくれた機会で、後者はその機会で積み上げた結果物ですから。

よくある質問

Q. ではアメリカの会社はなぜついていけなかったのですか?

A. 技術がなかったからではありません。いちばん大きな要因は転換コストでした。アナログ回路で成功した会社は、その設計者、その生産設備、その部品供給網を抱えています。デジタルへ行くにはそれをほぼ全部捨てなければならない。すでに上手くやっている会社ほど捨てにくいのです。そしてその間に価格競争が始まって、持ちこたえる時間もありませんでした。

Q. いま日本メーカーの製品を買うのは、まだ合理的ですか?

A. 用途によります。ハードウェアを複数の機器とつないで使うつもりなら、互換性と耐久性の面でいまも利点があります。 逆にソフト中心で作業するならその利点はあまり意味を持たない。ただ中古で出回る90年代の日本製がいまも動くという事実そのものが、当時の設計方針を物語ってはいます。

Q. ヤマハはなぜ最初から大きかったのですか?

A. ヤマハはシンセの会社として始まったのではありません。オルガンとピアノを作っていた会社が電子楽器へ移ってきた例です。だからローランドやコルグとは出発線そのものが違いました。浜松クラスターの中心にいたのもヤマハです。ローランドが創業初期に国内を避けて輸出へ向かったのは、まさにこうした先行企業がいたからです。

Q. いま新しくシンセの会社を作るなら、どこが有利でしょう?

A. 答えにくい問いですが、最近の流れを見るとハードウェア製造そのものの参入障壁はかなり下がりました。 小ロット生産ができるようになり、部品は世界のどこからでも手に入ります。実際に小さな会社が面白い機械を出していますね。ただ当時の日本の会社が持っていた価格競争力と流通網は、いま誰にも簡単には作れません。条件がまるごと違うわけです。

まとめ

スタジオをもう一度見渡します。ローランド、コルグ、ヤマハ。

この名前がそこにある理由は、結局1946年に九州で時計を直していた十六歳と、1962年に東京でクラブをやっていた主人と、1966年1月に出た二冊の本へつながります。

技術の話というより条件の話ですね。誰が賢かったかではなく、どの条件が重なった場所に誰が立っていたかに近い。

そして条件は変わります。いま市場で起きていることも30年ほど経てば似たようにまとめられるでしょう。そのとき名前が残っている会社がどこかは、いちばん上手い会社ではなく、次の転換を渡りきった会社のはずです。

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